大昔の群集事故の事例

過去から学び、今を作る / 2022-11-08T00:00:00.000Z

2022年10月29日、ハロウィン前の土曜日であることも相まってソウルの中心部にほど近い梨泰院では多くの人々が行きかっていました。しかしながら何らかの原因により人々が重なり合うように転倒してしまったことで150人を超える方がお亡くなりになってしまいました。これは「梨泰院群衆事故」と呼ばれており、この記事を書いている11月2日現在でも残念ながら亡くなった方は徐々に増えていってしまっています。

この事故の原因は未だ明らかになっておらず、憶測を信じ込んで適当なことをTwitterで広めることよりも、過去の群衆事故の事例も学んで今後の群衆事故の発生を予防するための知識を得ることの方が恐らく社会にとって有益だと思うので、私は日本語で得られる情報を探し始めました。しかしながら日本語で得られる情報は主に日本における群衆事故の例が多く、容易に発見できたものとしては1807年の永代橋崩落事故、今回の事故のような群衆雪崩としては1903年のイロコイ劇場火災が最古のものでした。しかしながら古今東西人間が大量に集まることは発生していたはずで、記録に残っていないものもあるでしょうが、遡ることが出来るのはわずか200年程度というはずがありません。

英語版ウィキペディアに「List of human stampedes and crushes」という過去の群衆が絡む事故を載せたリストが存在しますので、ここから参考になりそうな事例を独断と偏見で抜き出していこうかと思います。「human stampedes」はいわゆる群衆雪崩を、「human crushes」はもうちょっと広く群衆事故を意味するらしいので落橋事故なども含まれていますが、今回は梨泰院で起きたような群衆の転倒による事故について主に扱っていこうかと思います。

刑場に民衆が殺到

1807年2月23日、ロンドンの中心部に存在したニューゲート監獄において絞首刑が実行されました。この当時死刑の執行は娯楽の一つとなっており、多くの市民が監獄へと向かいました。また執行を受ける囚人は無実を主張しており、注目度の高い死刑執行だったとも言えます。この日は監獄周辺地域に40000人もの人がいたという記録まで残っています。

死刑が執行された瞬間、群衆は下へと落ちていった死刑囚を一目見ようと後ろの観衆が前の観衆を押しのけるようにして処刑台に集まってしまいました。さらに注目が集まった結果見物客の一部が乗っていた木製カートの車軸が破損したり、落としたバスケットを拾おうとした人がしゃがみこんだ結果周囲の人を転倒させたりといったアクシデントも起こりました。その結果前の観衆は踏みつぶされることとなってしまい、少なくとも27人がこの事故でお亡くなりなったと考えられています。この出来事は「The Newgate disaster of 1807」と呼ばれています。

教会で転倒、110人が死亡

1823年2月11日、マルタの教会では子供のためのミサが開かれていました。このミサは大人たちがお祭り騒ぎをしている間子供たちを預けるために行われていたもので、1823年以前にも行われており大きな問題が発生したことがありませんでした。またお祭りは数日続いていたものなので2月10日の日中にも同様のミサが行われており、当然のことながら問題は発生していませんでした。

しかし2月11日は異なりました。子供たちが家路につく際には混雑を避けるために、教会のの通りに面した扉から出されることになっていました。ミサを終えた子供たちには事前にパンが配られていました。また同じタイミングで教会にある聖具室の後部でパンが配布されており、パンを求める大人たちと動線がぶつかり合わないよう、そして二重にパンを受け取らないよう聖具室と教会の廊下の扉は通常施錠されていました。しかしこの日はカーニバルが終わるのが遅れたため、子供たちを帰すのが遅れたことから通常通りに施錠されていませんでした。

そのため子供たちがパンを求め教会内部へと入っていってしまい、内部は大人と子供で埋め尽くされてしまいました。やがてパンを求める大人が増えるにしたがって子供が反対に押しのけられてしまい、廊下の方まで押し出されている子供たちが出てきてしまいました。廊下の際には階段があったのですが、やがて子供たちが階段へと突き落とされるようになってしまいました。もちろん子供たちが何もアクションを取らなかったわけではなく、悲鳴を上げた子供もいました。それを聞いて大人たちはどうにか助けようとしたのですが時すでに遅く、少なくとも94人、恐らく110人の子供たちが亡くなってしまいました。これをマルタでは「Carnival tragedy of 1823」と呼ぶそうです。

参考文献

皇帝からのプレゼント

モスクワにホドゥインカ広場という広場が存在します。ここで1896年5月30日、ロシア帝国最後の皇帝となったニコライ二世の戴冠を記念して食料が配布されていました。当然ながら食料を無料で得られることから50万人とも言われる民衆はそこへと向かい食料の配布を待っていました。運営側はここまでの市民が集まると考えていなかったのか警備の警官が足りていない様子であり、ビール不足に陥ったなどといった噂が民衆の間を駆け巡っていました。

その中において、何らかの原因により群衆のバランスが崩れてしまいました。こうなった時、人間は容易に踏みつぶされてしまいます。さらにあまりに市民の人数が多かったことから事態が上手く把握されず、1300人の方が無くなり最大で20000人の人々がけがをしたと想定されるような状況でも戴冠式とこれに関連するイベントが続けられてしまいました。これをロシア語では「Ходынская трагедия」、日本語にするのならば「ホドゥインカの悲劇」と呼んでいます。

最後に

思ったより昔に遡れる確かな事件は存在しなかったなという感想を持ちました。きちんと記録されることが少ないのでしょうか。

Writer

Osumi Akari

Category