日本語版ウィキペディアに「クリュッペルハイム」を立項した

あまり詳しくないことは詳しくない / 2022-11-30T00:00:00.000Z

先月末の私は「バウマシーケンス」を日本語版ウィキペディアへ立項していました。結果として毎月ウィキペディアへ新しい記事を立項しているとなっているので、今月も「クリュッペルハイム」という新しい記事を立ててみました。というわけで立項の上で引っかかった点などを記していきたいと思います。

クリュッペルハイム

クリュッペルハイム(de: Krüppelheim)について詳しい話は記事を参照していただきたいのですが、一言で言えば肢体不自由者、すなわち手足などが不自由である人々に対する施設を指す、100年ほど前に生まれたドイツ由来の概念です。教育・職業教育・治療の三大要素を備えており、家の中に隠されてしまうレベル(実話)であったそのような人々の自活を目指していました。療育という概念の誕生に繋がらなくはない物とも言えます。そのため日本における特別支援教育を考える上で無視できない存在であるのに日本語版ウィキペディアはおろか英語版にすら記事が存在せず、インターネット上で手に入る文献もあまりに古い時代の話は若干ボカされてしまっている感じがした(といっても有用であることに変わりはない)ので記事を立てました。

しかしながら私のメインでやっていることからあまりに離れていることから以下のような困難が生じてしまいました。問題が起こるたびにメモしていったので若干まとまりがありませんが、どうかお許しください。

ドイツ語は読めません!!!

私は英語を読むことが少しできるので、英語で書かれた文章をある程度理解することが可能です。ところがクリュッペルハイムの概念を語る上では欠かせないであろうKonrad Biesalskiさん(カタカナ表記ならばコンラート・ビーザルスキさん当たりが妥当でしょうか)には英語版の記事が存在しませんでした。

そのため仕方なくドイツ語版のページを見ることになったのですが、私はドイツ語を読むことが出来ないのでそこに書いてあることも当然ながら理解することが出来ません。しかしながら私は土日を活用してクリュッペルハイムの記事を書いています。ある程度の人類は土日の少なくとも一方は休日であるといわれているため、ドイツ語の基礎を理解している友人に質問をしまくることによって解決しました。一応クリュッペルハイムの記事を書くにあたって、ネットで得られる程度ではありますが特別支援教育の基礎知識を調べておきました。これを基に友人へその話題に対する基礎的な話をし、友人からはドイツ語で書かれたビーザルスキさんについての記事を翻訳してもらうという一方的な収奪に極めて近しい形でしたが、友人は許してくれたのでまあいいでしょう。

いつ出来た?

この手の特別支援教育は手探りで始められることが多く、正確な発足年度が不明になってしまっているのはしょうがないことでしょう。しかしそれが70年以上もバラバラになってしまうことがあるのでしょうか。村田 (2012, p.8)には以下のように書かれています。

一八三二年、ドイツのミュンヘンに、クルツ(J.N.E. von Krüz)によって、肢体不自由者を収容する施設(クリュッペルハイム)が設けられたが(後略)

しかしながら小崎 (2016, p. 348)には以下のように書かれていました。

プロシアにおいて最初の肢体不自由児調査が Biesalski によって行われている.彼はこの調査結果を踏まえて療育施設クリュッペルハイム(Kruppelheim)の建設を提唱した

これを読む限り、クリュッペルハイムは2回「初めてのもの」が出来たように見えてしまいます。しかしながらそのようなことは、激しい衰退がほとんど見られない特別支援教育の歴史を鑑みれば考えずらいでしょう。どちらが正しいのでしょうか。

正解から言えばどちらも正しいものでした。後述する田波 (1967)に所収されている高木憲次さんの論文「クリュッペルハイムに就いて」よりも先にこの2つを読んだので混乱してしまったといえます。この論文においてはクリュッペルハイムの歴史を大まかに解説していたため、上の2つの記述の関係性ををスッキリと理解することが出来ました。どのようなことかといえばシンプルなもので、村田 (2012)は「クリュッペルハイムと呼ばれるようになったものが1832年に出来た」と、小崎 (2016)は「クリュッペルハイムという概念が1906年に作られた」としています。これなら矛盾しませんね。

ポリオ

あまり明記されていなかったので書くかどうか迷って結局書かないことにしたのですが、肢体不自由者が当時多かった理由としてポリオの存在が挙げられます。別に感染症に詳しいわけでもないのであまり詳しいことは書けませんが、経口感染するポリオウイルスが神経に入り込むことに起因する髄膜炎のことを指します。そこまで確率は高くありませんが、ウイルスが中枢神経系に入ることによって下半身不随を起こしてしまう可能性があります。

かつてはこれが後天的な肢体不自由者を生み出す要因の大きな一つでした。現代では1950年代に開発されたポリオワクチンによってその発症が大きく減少しているため、強く問題になることは少ないものです。一応直接的な話ではないので記事に反映はしませんでしたが、反映したほうが良いと思われる方は適切な出典と共に追記してくだされば幸いです。

高木憲次という人

田波 (1967)は1963年に亡くなった高木憲次さんの伝記として出版されたものです。今回のクリュッペルハイムに関連する事項のみならず、もう一歩引いた大正期日本における身体障害者に関する事情をアカデミアに近しい視点から知ることが出来る資料でした。また高木さんが生前出版された論文なども所収されており、国会図書館の窓口へ行って閲覧請求をしなくとも彼の論文などを読むことができ、記事執筆の大きな手助けとなりました。

色々と切ないエピソードも含まれており、記事執筆関係なくおすすめできるような本だと思っています。例えばこのようなエピソードがありました。

息子が先天性股関節脱臼を患っているのは、息子が1歳半の時に分かっていたが治療のための金銭が無い。父親は「借金はするな」という遺訓を残して天へ旅立ったので、酒タバコはもちろん削れるものは全て削り5年かけてどうにか費用を貯めた。今から何とかならないのか。そう聞いてくる男が休診日にも関わらずドアを押し開けて入ってきた。

最初は成長してしまったため軟骨の柔らかさを活用した治療が出来ないことに半分憤ってしまっていた高木は、話を聞いて潤んでしまった目で「一歳時ならまだしも現在ならば、既に手遅れである」と答えるしかなかった。

すると男は突然床に崩れ、「父親の遺訓を破っておけばこんなことには…」と嘆き続けてしまった。

伝記でこんな泣いたことないよ…。

さて、めちゃくちゃ個人的にいいなと思った概念として「好意の無関心」というものがあります。私が下手に解説するよりも彼の言葉を借りた方が分かりやすい考え方でしょう。

好意の無関心と云う提案の趣旨は、特殊視もせず、従って特殊扱ひもしない、差別視しない、差別待遇をしないと云う根本理念から出ているのである。行きずりにジロ/\見るのがよくないのと同様に、亦意識的にワザと無関心振りを発揮するのも亦よくない。

(中略)

特殊視はしないけれども、一朝支援を必要とする場合には、進ンで応援・救護するだけの好意をうちに懐いている。これを好意の無関心と呼称し(後略)

田波 (1967, p.49)より。

私は「ダカラナニーの精神」という考え方を勝手に提唱しており、広めようとは一切努力していないのですがこれに近しい考え方を持っています。そのため勝手に感動していました。

最後に

高木憲次さんの論文や伝記は、クリュッペルハイムという概念の理解及び肢体不自由者への初期の教育について理解するのに極めて有用なものだといえます。しかしながら日本においては著作権の保護期間が著作者の死後70年となっているため、引用の範囲を超えて掲載することが出来ませんでした。悲しいです。

さてこの記事も終わりにさせていただきましょう。上記の通り私はクリュッペルハイムそのものについて詳しいわけではなく、そこまで仔細に調査したわけではないので間違ってしまっている記載も数多くあるかと思います。そのため誤っている箇所を見つけた方は、自らの手で編集を行い内容の改善に貢献してくださるとありがたいという気持ちがあります。ウィキペディアの編集は基本的なルールさえ守ればそこまで難しいものではありませんので、繰り返しになりますが改善の手助けを行っていただければ幸いです。

Writer

Osumi Akari

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