ダカラナニーの精神

DAKARA NANY.(非登録商標) / 2022-12-01T00:00:00.000Z

「クリュッペルハイム」を日本語版ウィキペディアへ立項したのですが、その調査の過程で「好意の無関心」という概念を知りました。詳しい話は前回の記事を読んでいただきたいのですが、一応私は昔から似たような考え方「ダカラナニーの精神」を持っていました。タカラトミーのロゴを改変したコラ画像を基にした命名ですが割と真面目に。大まかに言えば存在を認めることさえ出来ればよいというものです。この文だけ見てブラウザバックしてほしくはないですが。

下手に書いて公開すると放火したい人々の餌食になる気がして書くのを控えていました。しかし今の時点での私の考え方を公開しておくことで誰かに先取を主張されないようにするということと、ウィキペディアの記事クリュッペルハイムの執筆に3日間かかった上に私の多忙が重なったためこのサイトの記事ストックが不足し始めてきたことから、取り敢えず適当に書いて公開してみようと思います。

なお私は論理的な評価「は」大好きなので自由に行ってください。その際に引用要件を超える転載については、このページに適用されているライセンスであるCC BY-SA 4.0に基づいて当然ながら許可しているため、リーガルコードをご確認の上行ってください。長々とした前文も最後になりますが、私は人間を信用しているがため陰口を拾うのに長けていないと考えられるため、私のTwitter(@Kig_OsumiAkari)へ何か評価を行われた際はお知らせいただけると幸いです。

結論

  1. 他人はどうでもいい
  2. その存在の特質はどうでもいい
  3. 無理にラベリングしなくてもいい(それはそう)
  4. 存在を認めることが重要

「多様性」という画一性

近年「多様性を認めるべき」という話題が人口に膾炙しています。もちろんこれは特定の属性であることのみをもって何かが決定されるような世界を改善しようという動きとして好ましいものでしょう。しかしながら現実はそう上手くいっておらず、女性の雇用率を上げるためだけに不必要な雇用を行ったり特定の人種を意味もないのに映像作品の主人公に据えてみたりと、多様性とされるもの自体が目的となっています。その結果何が生まれたでしょうか。何かに強制されるようにして多様性は生まれたといえるのでしょうか。そのようにして生まれた多様性とされるものは、「これが多様性である」とされたものをそのままなぞったものであると言えるのではないかと考えています。その画一的な「多様性」は、多様性を認めようとする人々に求められているものではないといって過言ではないでしょう。

ではどのようにすればよいのでしょうか。これを考えるためには多様性がどこから生まれるか考えてみましょう。多様性というのは異なる性質のものが多数存在している状態のことを指す言葉です。ここで重要なのは存在していること、つまり排斥されていないことが多様性の担保になりうるということです。無理矢理「多様性」なるもののために要素を入れ込んだ上で既存の集団が快く受け入れるでしょうか。それよりも集団の過度な均質性を生まないようにすることが大切なのではないかと思っています。人間は100%同じDNAを持っているわけではありませんし、もし同じDNAを持っていたとしてもどのように成長してきたかによってどのような人間になるのかは変化していきます。しかしながら現状わざわざ無理矢理多様性を生み出そうとしていることから、どこかで均質になるようにされてしまっていることが考えられます。。この段落をまとめるのならば結果的に生まれるものが多様性であり、それを認められる環境を整えることが重要であると言えるのではないか、ということです。

同質であると認める度合いも実は曖昧といえます。例えば「オーストリア人」という概念が多くの人々に共有されて100年も経っていません。「日本人」というものの解釈も、人によって全く同一かというと異なるでしょう。この曖昧なもの中に同質性を見出し、それ以外のものを持つものを追い出した上で群れるという動きは若干滑稽にも見えてきます。個人的な解釈ですが、同質性は任意の要素を適切に選択し設定すれば大概のものに設定できるでしょう。そのようなものに縋る気持ちも分からなくはありませんし、それが精神の安定に寄与しているのならば別にいいと思ってはいます。しかしながらこれがとある画一的な考え方の押し付けに成り下がっているのはもったいないし非生産的なことと言えるでしょう。

DAKARA NANY

以上の理由から私は「ダカラナニーの精神」を唱えています。大まかなものは結論に置いて述べさせていただきましたが、他人の存在そのものを認めた上でそれ以上の属性を気にしないという考え方です。気にはしないけど現状その属性があるがために課題を持っている人に手を差し伸べて、同じ機会を提供するというものも含みます。スタートがそもそも切れないという属性を放置することは存在を抹消しているのとほぼほぼ同じものと言えるからです。

もちろんこれは理想論です。しかしながら理想を初めに考えないで、どうして現実解を考えることが出来るのでしょうか。「存在を認めた上でどこまで気にしないでいられるか」というのは時代によっても場所によっても人によっても流動的な変化をしていくものだと考えています。そのため一番の条件である「他者の存在を認める」ということを共通認識であるとした上で、目的のためなら本当にどうでもいい属性を可能な限り消していくといった形が、このダカラナニーの精神の実践になるのではないかと思っています。

最後に

任意の他人に向かって自分が女性差別であるとした点(大概どこが差別であるのかを他人に説得力を持って説明はしないが、差別であること自体は確かであるらしい)を指摘し、それに同調した複数の人物がその人へTwitterを通して公然と差別であると声高に訴えるという人々が存在します。この俗にツイフェミと呼ばれる、かの朝田善之助も驚くような人々が、この記事を見て私に火を付け始めないか大変不安にはなっています。しかしそういった人々は往々にして「人権と自由を大切にしている」ので、わざわざ言論の自由を自ら締め付けるようなことはしないので大丈夫でしょう。

さて真面目な話をさせていただくと、恐らく私の考え方の根本に機会平等主義が流れているので、これを換言したような中身のない文章になっている気はしています。一歩離れてみれば、ダカラナニーの精神は実質的に機会平等主義・博愛主義を合わせた上でこれらを単純化したもの、と言えるかもしれません。

私の文章力が終わっているので、利用規約よりは少し短いくらいの長さになってしまっていると思いますがいかがでしょうか。書く前に構成を何も考えなかったためあまりまとまりのない文章になってしまったかと思います。一応書きながら構成を変更したりはしましたが、やっぱり長いしロジカルといえるかというと微妙な記述も存在したりはしています。その点をご了承の上で読んでいただけると嬉しいなという気分はあるので、細かいところについては許してほしいという気持ちもあります。

Writer

Osumi Akari